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箱根への小旅行(75)

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「私、多分これが親父じゃないかと思うんです。」
そう言って私は写真を指さしました。

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親父は身長163cmと比較的小柄で、頭も小さい方でした。
アルバムに残っている写真と比較してみても、ゴグルからのぞく顎のラインが、私の記憶にある親父のそれとよく似ているような気がするのですね。

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1959年浅間耐久に向け、RC142で練習中の親父

Aさん、「へえ、そうかねえ」と私の意見に相槌を打ちます。

「で、これとこれは谷口尚己さんと島崎貞夫さんなんじゃないかと思うんですよ。」

イメージ 3

島崎さんと谷口さんも、その体型、顔の輪郭などからして、恐らくそれに間違いないだろう、と私は思っていました。
ご両人とも親父より年齢は下でしたので、2列目に陣取る親父の後、という位置にも違和感を感じません。
特に、谷口さんについては割と自信がありましたね。
浅間の時代の谷口さんは肘を突っ張らせたライディングフォームに特徴があり、「肘を張りすぎだ」と監督の河島さんからもよく注意されていた、というお話を聞いたことがあったからです。
その旨をAさんにお話しすると、

「あはは、そうだねえ。よくそう言われてたっけねえ。」

そういってAさんは笑いました。

結局のところ、私の推理が正しかったかどうかをAさんから伺うことはできませんでした。
やはり、当日誰がいたのか、はっきりとは覚えていらっしゃらないということで、50年という歳月はいかんともし難く重いものです。(^_^;)

ただ、こうしてパズルのピースを埋めて行くと、その面子はこの年1959年から翌1960年頃のスピードクラブの主力メンバーと概ね符合させられるのではないかと私には思えるのです。
この写真には、顔の写っている方6名の他に、

1.ゼッケン15の影に完全に隠れてしまっている方1人
2.ゼッケン12の後にマシンだけ見えている方1人

の、計8名の方がカメラのフレームの中にいらっしゃったようです。

イメージ 4

推理をもう少し膨らませ、この顔や姿の見えていない方についても考えてみましょう。

まず、義一さんのすぐ後ろ、マスクで顔を隠しているゼッケン15のマシンに乗っている方。
これ、恐らく鈴木淳三さんなのではないかと思います。

イメージ 5

当時淳三さんは義一さんに次ぐクラブ内No.2で、TTレース初参戦時は「主将:鈴木義一」に次いで「副将:鈴木淳三」を会社から拝命していました。
その背景からして、まあ、義一さんのすぐ後ろであるここが順当な位置なんではないでしょうか。
淳三さんではなく別の方、例えば田中健二郎さんの様な方である可能性もあるかな、という気もちょっとしないではありませんが、だとすると淳三さんはゼッケン13の親父のうしろか、ゼッケン12の谷口さんのうしろのいずれかだった、と考えざるを得なくなります。
なにか訳があって、そもそも淳三さんはこの場にいなかった、となれば話は別ですが、そうでなければこの撮影が行われた際、TT初参戦の副将として選抜された方が、「選抜から漏れた親父の後ろ」もしくは「年下である谷口さんの後ろ」というのは、なんとなく不自然であるような気がします。

その淳三さんの影に完全に隠れてしまっている、ゼッケン12の谷口さんの隣は、恐らく田中助さんでしょう。
そして、谷口さんの後、マシンの前輪だけ見えているのは、多分佐藤幸男さん。
と、こんな具合に考えるのが、恐らく順当なのではないかと思います。
そうすると、この時のグリッド順はこうだったことになります。

一列目
進行方向右→鈴木義一
進行方向左→秋山邦彦

二列目
進行方向右→鈴木淳三
進行方向左→福田貞夫

三列目
進行方向右→谷口尚己
進行方向左→田中助

四列目
進行方向右→佐藤幸男
進行方向左→島崎貞夫


つまり、ほぼ当時のクラブ内の序列はこうだっただろう、と思われる順番に並んでいることになるのですね。

…そうすると、田中健二郎さんと藤井璋美さんは、この時ここにはいなかった、ってことになるんでしょうか?

多分そうなんだろうと思います。
このお二人は「嘱託社員」でしたから、こういった社命を拝することはなかった、ということだったのかもしれませんよね。
「嘱託だった」という共通点を持つお二人がどちらもいない、となれば、その可能性が高かろう、と考えられるものと思います。

例によって、真相は藪の中、ではあるのですが。

箱根への小旅行(76)

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そんなこんなでお昼になりました。

この大観山レストハウス、今日のようによく晴れた日ならば景観は素晴らしいのですが、失礼ながら、食事となるとそう大したものはありません。(笑)
メニューのイメージは、といえば…そうですね、あんまりメジャーではないスキー場の「ゲレンデ食堂」みたいな感じでしょうか。
「何とかレストハウス」とか小洒落た感じじゃなくて、「ゲレ食」。
分かりますかね、この感じ?(笑)
まあ、今日のような天気であれば、何を食しても窓から見える景色が最高のオカズにはなるのでしょうが…。

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弟が食券で買って来たそばをすすりながら、Aさんとつれづれにお話を交わします。

「秋ちゃんはねえ、ちょっとまわりの人とは違っていましたねえ。」

Aさんは言います。

「運動神経はもう抜群でしたよ。スポーツは何をやらせたって万能だし、体はやわらかいしね。学生の頃は柔道部だったんですよ。」
「へえ、柔道部ですか。それじゃあ、受け身なんかきっとお手の物だったんでしょうね。」

当時のスピードクラブのトレーニングには、砂場の手前に跳び箱を置いてそれを飛び越えさせ、体を丸めるようにして砂の上で受け身を取る練習、なんてものがあったのだそうですね。
柔道の世界では、「受け身」はどんな技よりも先に「基本」としてまずみっちりと教え込まれる筈ですから、多分秋山さんはスピードクラブに入る前から、その受け身の取り方が基本動作として身についていたことでしょう。

「ところで、秋山さんの学校ってどちらだったのですか?」
私の問いに、
「日本大学ですよ。」
そうAさんは答えます。

「え、日大?」
そばをつまむ箸を止め、私はAさんに聞き返しました。
「じゃ、秋山さんって学卒だったんですか?」

それまで私は、秋山さんも親父と同じく高卒でホンダに入って来た方だったのだとばかり思っていました。

秋山さんが亡くなられたのは昭和34年4月1日、享年24歳。
兄の呆榮さんの手記によれば、当時秋山さんは24歳になったばかりだった、ということのようですので、この年昭和34年は、秋山さんにとって満25歳を迎えることになるはずだった年、ということになります。
となれば、秋山さんの生まれ年は恐らく昭和9年、早生まれでないとするなら、昭和9年10月生だった親父と同学年だった筈、という計算が成り立つことになります。
ちなみに、親父の入社は1953年(昭和28年)の事でした。

親父の若かりし頃のエピソードを追いかける過程でホンダの歴史を紐解いて行くと、秋山さんのライダーとしての評価は、会社・クラブ内ともに、非常に高いものだった、ということがよく分かります。

以下引用---

1989年 三樹書房刊「グランプリレース 栄光を求めて 1959~1967」河島喜好談「勝利への3年間」より

(前略)
ところが,そんな矢先,思いもかけない不祥事が発生したのです。
初出場も決定し、そのライダーも発表されていたのですが、そのうちの一人である秋山邦彦が“妻と勲章”という映画のロケ中、元箱根のカーブでトラックと衝突して死亡するという、最も悲しむべき事件が起きたのです。
(中略)
彼は大変熱心なライダーで、教養もあり、マン島コースについても、あらゆる資料を手元に集めて研究していたのです。
そして英会話も出来なければいけないというので、その勉強も欠かさずにやる程の熱の入れ方でした。
彼のレース歴は新しいのですが、人に負けたくないというファイトは旺盛な青年で、動作もキビキビしており、海外レースで長年鍛えれば、相当に伸びる素質をもっていたライダーであっただけに、彼の死はホンダスピードクラブにとっても、本田技研にとっても大きなマイナスでした。
(後略)

---

昭和31年(1956年)6月、ホンダスピードクラブがホンダ社内に発足した際、その中核を成す事になったライダーは、その前年1955年に開催された第一回浅間高原レースに出場経験のある方々でした。
では、秋山さんのお名前もこのレースのエントリーリストの中にあるのだろうか、というと、これが実はありません。
秋山さんのお名前が初めてレースシーンの表舞台に出てくるのは、その2年後の1957年、場所を第一回大会の北軽井沢の公道から、浅間牧場内「浅間自動車テストコース」に移されて開催された、第二回浅間火山レースから。
心証としては、やや唐突に「秋山邦彦」という名前が、それこそホンダの歴史の中に「突然」表れてくるのです。

私には、この理由が長いこと分かりませんでした。
年齢は親父と同じで、それほどまでに評価の高かった秋山さんが、なぜ親父や鈴木義一さん、谷口尚己さんの出場していた第一回大会に出場していなかったのか?

これが分からなかったため、このブログの中にある「私小説 つわものどもの夢のあと」の中に出てくる秋山さんは、当初未舗装の道路で行われるレースには興味がなかったのだ、という設定にしてストーリーを展開させていました。


その「わからなかった理由」が、この時のAさんの証言で明らかになったのです。
計算してみると、秋山さんの入社は親父が入社した昭和28年の4年後、恐らく23歳になる年である昭和32年春。
つまり、第二回浅間大会の行われた年の春だった、ということになるのですね。
そうすると秋山さんは、入社後すぐに厳しい選考をくぐり抜けてスピードクラブに入部し、いきなりその年の秋(11月)に行われる、当時国内では最も格式の高い「浅間火山レース」の出場選手に選抜されたのだ、ということが分かります。
やはり、非凡な方だったのでしょうねえ。
秋山さんの名前がホンダとスピードクラブの歴史の中に突如表れることになった経緯が、これでやっと腑に落ちました。

「実は私も日大卒なんですよ。秋山さん、学部はどちらだったんでしょうね?」
「学部?さあ、学部までは分からないけどねえ…。でも、身軽だったですよ。足を開いて、おなかが地面にピターッと着くくらい体は柔らかかったし、その場で後ろ宙返りまでできちゃいましたからね。」
「後ろ宙返りって、バク宙ができた、ってことですか?」
「バク宙?そう言うんですか?」
「そりゃすごいや。」

3人してそばをすすりながら、話は続きます。

謹賀新年

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あけましておめでとうございます。

旧年中は、なんとも不定期な更新にも関わらずご愛顧頂き誠にありがとうございました。

本年も何卒気長によろしくお願い申し上げます。


箱根大観山より芦ノ湖を望み

箱根への小旅行(77)

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この写真の事も伺ってみました。
ウエルカムプラザ青山「浅間でのHondaの挑戦」展(13)で記事にした、謎のマシンが写った写真です。

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この写真が撮影されたのは、昭和33年から34年にかけての頃かと思われます。
場所はまず間違いなく浅間自動車テストコースでしょう。

この頃のホンダのマシンといえば、エンジンがOHCあるいはOHVの4ストローク、フレームはエンジン自体がストレスメンバーを兼ねるバックボーン型であった、というのは、ホンダの歴史にちょっと詳しい方なら誰もがご存知のことかと思います。
ですが、この写真、一番左に写っているマシンを良く見ると、フレームは2本のダウンチューブを持つダブルクレードル、エンジンは明らかにシリンダーヘッドにカムシャフトを持たない「2ストローク」であることがはっきりと分かるのです。

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タンクやフロントフォークの形状からして、この一番左端のマシンも他に並んだものと同様、1958年の第一回MCFAJクラブマンレースにホンダスピードクラブが走らせたRC71あるいはRC76であろうと思われます。
が、なぜかエンジンとフレームがこの1台だけ他と違う。
しかも、そのエンジンもフレームも当時ホンダが手を染めたことがなかった筈のタイプのものであることを考え合わせ、「これは一体どんな背景を持ったマシンなのだろう?」と、強く興味をそそられたものでした。
結局これがなんだったのか、その記事を書いた当時は分かりませんでしたが、当時スピードクラブにいらしたAさんだったら、この謎のマシンについて何かご存知かもしれない、と考えるのは至極当然の帰結です。

この写真が親父のアルバムの中にあったものであることを説明しながらAさんに差し出し、質問を投げかけてみました。

「この左端のマシンって、何だと思われますか?何かご存知ではないでしょうか?」

この写真を見たAさんは、「よくこんなものに気付いたもんだねえ。」と、半ば感心し、半ば呆れたように笑っておられました。

謎解きのヒントになれば、と思い、私は続けます。
「この左端のマシンって、恐らく島崎貞夫さんのものなんじゃないかって思うんです。」
そう言って写真を指差し、
「この車、タンクに『雷電』って書いてありますよね?『雷電』って、確か島崎さんが自分のマシンに入れていたネームだったんじゃなかったかと思います。昔、島崎さんがこんなマシンの開発に関わっていた、ってことはなかったでしょうか?」

私の問いの「開発」という言葉にAさんが敏感に反応して答えました。
「いや、この時代にホンダがこんなタイプのマシンを開発していた、なんてことは絶対にないね。だって、社長が大嫌いだったもの。社長がダメだ、っていうものを会社が作るはずがないでしょ?」

「確かにそうですよね。私もきっとそうだったはずだと思います。」
そうは言いながら、それでも私は改めて写真を指差して言いました。
「でも、これってどう見ても2ストロークですよね?こんな写真が残っている、ってことは、間違いなくこういうマシンが当時のホンダにあった筈だ、って考える他ないと思うんですが。」

そう畳みかける私の問いに、うーん、そうだねえ、と暫く写真を眺めていたAさん、
「いやあ、分らないねえ…。私もこんな写真初めて見るしねえ。」

…なんとこの写真。
元スピードクラブのメンバーの一人であったAさんですら素性が分からないようなものだったのです。

「そうですかあ…。残念だなあ。」
これでこの謎のマシンの素性が分かるかもしれない、と期待していたのですが…。
やはり真相は藪の中、ということになってしまうようであります。

箱根への小旅行(78)

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「…ただね。」

ふと思い出したようにAさんが言いました。

「この頃、研究所に研究用のアドラーがあったから、そのエンジンを使って作ったものだったかもしれないね。」
「…アドラー、…ですか…。」

研究所に研究用のアドラーがあった、というお話は、以前私も聞いたことがありました。
時期はちょうどC70のエンジンを使ったスポーツタイプCS71を開発している頃のことで、この頃研究所にあったアドラーとは、そのCS71のベンチマークとして入手された、アップマフラーのMB250Sだった、ということのようなのです。

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MB250SとCS71

(そうか、アドラーか…。)
今から約半世紀前の浅間で、この写真に写っている方々は何を考え、何を求めてこのマシンといっしょにグリッドに並んでいたのだろうか?
Aさんにそう言われ、私は改めて写真を眺めて「うーん…」と考えを巡らせていました。

と、Aさんが言います。

「それって、『雷電』でしょ?他に名前が書いてあるのがありますかね?」
「…車にですか?」
「そう。」

Aさんの問いの意味が分からず、やや戸惑いながら私は答えを返しました。

「えっと…。これが多分親父だと思うんですけど…。」

と写真の一台を指差し、
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「これ多分、『海風』って書いてあるんじゃないかと思うんですが…。」
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そう私は答えました。

「ああ、やっぱりそうだね。」

その私の答えにAさんはニコッと笑い、

「この頃、みんな自分の車に戦闘機の名前を付けてたんだよね。『雷電』とか『隼』とか『紫電』とか。」

(…戦闘機?)
私は「あっ」と思いました。

「…これって…、戦闘機の名前だったんですか?」
「そうですよ。」
やや驚いた様子で尋ねた私に、「何が意外なのか?」といった風でAさんは平然と答えました。

「…あはは、そうか。なるほど、そうだったんですね。」

これは私の勘違い。
なぜ島崎さんのマシンに「雷電」の名前が入れられていたか。
その理由を私は、ちょっと失礼ながら島崎さんが「やや小太りの体型だったから」なのだとばかり思っていました。
昔、相撲界に「雷電」というしこ名の力士がいたのだそうで、島崎さんはやや小太りの自分の体型を自虐気味に「雷電」というネームを敢えて自分のマシンに入れていたのだ、と私は理解していたのです。
が、考えてみれば昭和10年前後に生まれた親父の世代の人々にとって、「強さ」と「速さ」、更に「命知らず」を象徴する存在と言えば、それはまだ戦時中だった少年の頃に憧れた、大空を自在に駆け巡る「戦闘機」だったのですね。

「大戦に敗れた日本を、グランプリという新たな競争を通じて世界に飛躍させる」

スピードクラブの方々には、そんな本田宗一郎社長の描いた遠大な戦略の最前線に立ち、命を賭して戦っている、という強い自負と高い誇りがあったのだと思います。
そんな自らを「特攻隊」になぞらえ、自らが操るマシンに、かつて欧米を畏怖せしめた「戦闘機」の名前を冠する…。

なるほど。

戦争があった時代を知らない私達の世代には、なかなか思い及ばない心境ですが…。
でも…、分かります。
言われてみれば、実に良く。

親父の世代の方々が、世界的な奇跡と言われた日本の高度成長を迎える前の時代に、どんなことを考えていたのか。
分かった事実は些細なことなのかもしれませんけれど、その分かった事実が世代による理解の限界を埋めてくれ、僅かながらも当時の方々を突き動かした原動力が何者だったのかを、垣間見せてくれたような気がしたものでした。

箱根への小旅行(79)

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食べ終わったそばの器をセルフサービスの返却口に返し、手元にある残りの写真をめくりながらAさんに聞き忘れたことはなかったか、頭の中の整理作業に入っていました。

と、手元の写真をめくるうち、これが目に留まりました。

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それは、この長い連載の検証作業を行う過程でネットから頂いてきた、ここ大観山レストハウスの衛星写真でした。

(そういえば…)
この写真を眺めながら、考えました。
(ついさっきAさんに「ここだよ」と言われるまで、条件に合う場所が見つけられないで「ない、ない」と探しまわることになってしまっていたのだっけな…。)

今日一日、Aさんから当時のいろいろな出来事を教えて頂くうち、当初考えていた「現場は、芦ノ湖から大観山レストハウスまでに至る坂道のどこだったのか?」という、Aさんに証言を頂くために用意した推理は、ものの見事にひっくり返ってしまっていました。
そして、それがこれまで検証を重ねて来た現場の状況と合致するものなのか否かを検証する時間もないまま、所与のものとなってその後に伺うお話は進んでしまっていたのです。

(もうここまで来れば、『現場がここだった』という事実が覆ることはないのだろうが…。)
そう思いながら、改めてこれまで調べを進めて来た結果導き出された「事故の起こった状況」と照らし合わせ、その状況とこの現場が符合するのか、頭の中でイメージし直してみたのです。

推理のスタートになったのは、事故直後に撮影されたと思われるこの写真です。

イメージ 2

弟の言う「あの写真が事故直後に撮影されたものとは限らない」という説に屈する腹が決まるまで、私が思い描いていた「現場を特定する条件」は以下の通りでした。

<条件1>
「事故が起こったのは、椿ラインの右コーナーだった」
<条件2>
「現在の大観山レストハウスの付近がレースシーンのゴール地点になっていて、事故はゴール地点で待機している撮影隊の目の前で起こった」
<条件3>
「事故の起こった坂道は、東から西に登る坂道だった」
<条件4>
「スピードクラブのライダーたちは坂道を下から上に登っていたところ、上から坂道を下って突然表れたトラックと遭遇した」
<条件5>
「事故の起こった道は、元箱根側から見て右手は石垣、左手は芦ノ湖を望む崖の連なりになっていた」
<条件6>
「レースシーンのスタート地点は、現在の大観山レストハウスから目視できる位置にあった」

この6つある条件のうち、私が最も強くこだわり、その結果、他の「推測される状況」との矛盾に頭を悩ませる事になったのは<条件3>、「事故の起こった坂道は、東から西に登る坂道だった」という点でした。

過去記事箱根への小旅行(23)から始まる検証の結果、「事故の起こった現場はほぼ東西に道路が走り、かつ、東から西に登る坂道になっていた」という推理を私は導き出していました。
が、この推理を芦ノ湖から大観山に至る坂道に当てはめて検証してみたところ、その条件を満たすカーブというのは、芦ノ湖~大観山の登り坂にはほとんどありません。
再三に亘る現地訪問など長い検証を経た結果、「条件に当てはまる場所はない」という結論を導くに至り、最終的に「事故は大観山レストハウス手前の最終右コーナー」で起こったもので、「事故現場の写真は、後日行われた現場検証の際に撮影されたものだった」とする弟の説に屈する腹を決めることになった、という訳です。

ところが、実際に現場を訪れてその真相が明らかになってみると、その推理の大前提になっていた「レースコースは大観山の芦ノ湖側の坂道にセットされていた」という条件が誤っていたことが分かりました。

(…ならば、その明らかになった事故現場に、もう一度あの事故直後と思われる現場写真を当てはめてみたらどうなるのだろうか?)

そう私は思い、手にしたレストハウスの衛星写真を見つめながら、改めて頭の中で情景をイメージし直してみたのです。

[転載]浅間、マン島、鈴鹿

箱根への小旅行(80)

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過去の検証から、事故が起こったと思われる昭和34年4月1日14:00頃、太陽はほぼ南西の方角にあったことが分かっています。
とすれば、その時間の影は太陽の反対側、北東の方角に伸びることになります。
プロジェクトXのDVDからキャプチャした事故現場の写真が「事故直後に撮影されたもの」という前提に立った場合、写真の対面に立つ方の影が落ちている道路は、その落ちている影の向きからして、「ほぼ真東から真西へ登る坂道」だった、という推理を組み立てていたのはすでにご承知の通りです。
これを、ネットから頂いてきた現場付近の衛星写真に当てはめて考えてみましょう。
ネットの衛星写真は、方角をいじらずに素直にキャプチャしてやれば自動的に真北が上になってくれますから、方位の特定は簡単です。
大観山レストハウスの衛星写真を見て、道路がほぼ東西に走っているところは、といえば、当てはまる部分は、ここになります。

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…なんとぴったり合うところがあるもんじゃありませんか。
前はあれほど探して見つからなかったのに…。
Aさんから伺った、事故現場である右コーナーの立ち上がりの方向とほぼ一致しています。

では、次。
事故の際、秋山さんたちスピードクラブの面々は、椿ラインを湯河原方面から大観山山頂目指して登っており、相手のトラックは坂道を下って突然表れました。
そうすると、秋山さんのオートバイとトラックの進行方向はどうなるでしょう?
こうなります。

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なるほど。
では、この時にできる影の方向は?
こうです。

イメージ 5

これまたぴったりですね。

じゃ、この衛星写真に事故現場の写真を重ね合わせてみたらどうなるのでしょう?
つじつまの合うものになるのでしょうか?
やってみると…。

イメージ 6

うわ…ぴったりだ…。
影も、トラックも、オートバイも…。

ではでは、この写真を撮影したカメラマンはどこにいたんでしょうか?
ボンネットトラックのボンネット上部が見えるくらい高い位置から撮影されていますけれど?
…この現場写真に写っている右手の土手の上から撮影したとすれば…

イメージ 7

こういう写真になります。

イメージ 8

…。
おお。
…合ってる…。
すべてがぴったりと辻褄の合う位置に収まる…!

(こりゃ、凄い…。)
腹の底から湧き上がって来る感情が抑えられませんでした。
(全部ぴったりじゃないか…。)
なんと、あの現場写真から推測された状況のすべてが、ここが現場だったとすれば、実に美しく、ものの見事に一致するのです。
西から東へと登る坂道、その坂道に落ちる影の方向、事故発生時のトラックとオートバイの位置関係、写真を撮影したカメラマンの立っていたと思われる場所…。
まるで、長い時間をかけ、苦心惨憺して組み上げて来たジグソーパズルの最後のピースが、苦もなくぴったりと収まるべき位置に収まったような、達成感にも似た感覚が襲って来ました。

「ああ…。」

衛星写真を手にしながら、思わず声が出ました。

「…Aさん、ここですよ。間違いない、現場はここです…!」
言いながら、私は写真を持つ手が震えているのを感じていました。

「そうかね?間違いない?」
その私の言葉に、Aさんはそう返して来ました。

やはりAさんも「ここだ」と思いつつも、確証はなかったのかもしれません。
なにしろ事故が起こったのは50年も昔の事です。当時と現在とでは、きっと現場の様相は大きく変わってしまっていたのでしょう。
ここで間違いない、と、今ここにいる誰もが納得できる証拠がもう一つ欲しい、と思っていらしたのかもしれませんね。

私は、ここが現場で間違いない、と確証するに至った理由を、手元にある写真を元にAさんに懸命に説明しました。
が、残念ながらその説明は、恐らくAさんに理解して頂けるようなものにはならなかったでしょうね。
本日ここまでに至る前段階で、何を元にしてどんな方法で検証を行い、どのような推理を組み立てて来ていたのか。
そのすべてを説明するには、時間も資料も、私の頭の整理も足りませんでした。
そんな拙い私の説明で、「間違いない」と私が確信するに至った理由を、果たしてAさんにご理解頂けたかどうか…。

(Aさんには、後でもっと詳細な説明を差し上げることにしよう…)

昂ぶる胸の鼓動を抑えながら私は、試行錯誤の末に導き出した当時の状況の推理が、今ここで正しく現場を特定する根拠になっていた事に深い感慨を覚えていました。
そして同時に、足掛け3年に及ぶこの長い推理の旅程が、遂に終焉を迎えつつあることを、何とも言いようのない深い達成感と、なぜか不意に襲われた一抹の寂しさと共に噛み締めていたのでした。

箱根への小旅行(81)

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帰りは大観山の山頂からそのままターンパイクを下って小田原厚木有料道路へ抜け、厚木ICから東名高速道路へ入って東京へ帰ってきました。
Aさんと弟を近所まで送り、お礼を述べて二人と別れた私は、まだ日が高かったこともあり、その足で秋山さんの眠る豪徳寺へ赴いてみることにしました。

豪徳寺を訪れるのは、親父が亡くなった翌年、平成16年のゴールデンウィーク以来6年ぶりのことです。
近所にある世田谷区役所の駐車場に車を停め、10分ばかりてくてくと歩くと、豪徳寺の山門に到着します。
6年前ここを訪れた際には、墓前に捧げる線香と生花を門前のお花屋さんに寄って買って行ったことを覚えていましたので、今回も、と思って門前までやって来たのですが、この6年の間にそのお花屋さんはなくなってしまっていました。

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「あれ、なくなっちゃってるよ…。」
前に来た時はここにあったのに…。
と、そう思いながら、手ぶらでここまでやって来てしまったことを少し後悔しました。
6年もたてば、こんなところでも様子が変わってしまうのですね。
手ぶらでお墓参りってのも変だよなあ…、とも思いましたが、辺りに代わりになるお花屋さんがあるかどうかも分からず、仕方なくそのまま何も持たずにお寺の門をくぐりました。

6年前に思いがけず見つけた井伊直弼の墓所は、この6年の間に国史跡として指定され、改装中でした。

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一方、6年前には改装中だった三重塔?は、もうすっかり改修が終わっていました。

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(6年も経つと、結構あっちこっち変わるもんなんだねえ…。)
秋山さんの墓所へ向かう前に、ちょっと寺内を遠回りしてぶらぶらと散策しながら、たった6年という短い歳月でも世間というのは案外変わって行くものなのだ、と改めて感じていました。

やがて、秋山さんの眠る墓所へと辿りつきました。
そこには、6年前に訪れた時と同じように、緑青で緑色になった秋山邦彦像が静かに佇んでいました。
まるで秋山さんがそこに佇みながら、昭和から平成に至る50年という歳月の変遷を、静かに見守り続けているかのように私には思えました。

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「秋山さん、ご無沙汰しております。手ぶらでごめんなさい。時間がかかりましたけれど、今日やっとあなたの事故現場がどこだったのか、明らかにすることができましたよ…。」
秋山さんの墓前に座った私は、静かに心の中でそう呟きながら、手を合わせました。



「私の子どもなんか、私の若いころのことなんかに全然興味持ったりしませんよ。いくらお父さんの若い頃のことだからって言っても、なぜあなたはそんな昔の事を一生懸命調べてみよう、なんて気になったんでしょうねえ?」

少し時間が遡りますが、Aさんと弟を車に乗せ箱根へ向かう途中、休憩で立ち寄った高速のSAで、煙草を吸いながらAさんはそう私に尋ねて来られました。

Aさんにそう言われた私は、少し考えてから言いました。
「…私たちって、3人兄弟なんですよね。」
そう言って隣に立つ次男を指差し、
「これ、次男で、名前を健二っていうんです。」
はあ、健二さん、と私の話を聞きながら、Aさんは相槌を打ちます。
「で、これの下には三男がいて、名前は貴光っていうんですよね。この二人の名前は親父が自分で考えて付けたものなんだそうなんですよ。」
ふむふむ、とAさんは頷きます。

過去記事「名前の由来」で私は、私の二人の弟たちの名前は、1960年の欧州遠征で同僚として親父と一緒にヨーロッパへ赴き、日本人初の3位表彰台を獲得した田中健二郎さんと、同じく日本人初の優勝者となった高橋国光さんに由来するものなのではないか、という推理を展開していました。
だから、次男の名前には田中健二郎さんから健二、三男には橋国さんから貴光と付けられたのではないか。
そう私は思っている旨を説明しました。

「で、私の名前って、昭彦って言うんですね。」
そう自分を指差しながら私は続けました。
「私の名前は、この二人と違って私の祖父が付けたものなのだ、って話を私は母から聞いているんですが…。」
そう言って私は一拍置き、
「私のこの名前って、実は秋山邦彦さんに由来するものなんじゃないのか、って気が私するんです。」

私の説明を聞いていた弟が「あっ、なるほど!」という顔をしました。

「根拠として考えられるのは…」と私は続けます。
…私が生まれたのは1964年で、1959年の秋山さんの事故から5年しか経っておらず、記憶がまだ新しかったのではないかと思われること。
…名前の一部を持って来るやり方が、二人の弟、特に三男のそれと同じであること。

もっとも、「違う」と考えられる点もないことはなくて、
…若くして不慮の事故で亡くなってしまった人の名前を、自分の最初の子供に付けたりすることがあるだろうか?
「縁起でもない」と思う方が普通なのではないか?

「ただ…」
ひと通り自分の考える根拠を説明した後に、私は言いました。
「もし秋山さんが本当に誰からも一目置かれるだけの人物で、親父が一種の『敬意』を払い、『自分も彼のようにありたい』と思うような存在だったのだとすれば、その可能性もないことはない、と私には思えるんです。母からは、私の名前は『祖父が付けたものだ』って話を聞いていますけれど、実際は親父がまず『アキヒコ』って音を決めてから、『これにいい字を当ててくれないか?』って祖父に頼んだ、ってことなのかも知れませんしね。親父も祖父ももうあの世の人ですから、真相は分からないのですけれど。」
そう説明してAさんに向き直り、
「ですのでね、私、秋山さんって一体どんな方で、親父とどんな関わりを持った方だったのか、凄く興味があるんですよ。」
そしてヘヘッ、と笑い、
「…私の名前って、私にとっては親父が残して行ったコード(暗号)なんです。」

私の説明を、SAの喫煙所で聞いていたAさん、うーん、と暫く腕組みをして考えていましたが、やがて、

「うん…、そうだねえ。そういうこともあったかもしれないねえ。」
そう返して来られました。
私の言う「一種の『敬意』を払い、『自分も彼のようにありたい』と思うような存在だったのだとすれば…」という話に、何か思い当たるところがあったのかも知れませんね。

(2011/1/23 加筆修正)

【訃報】河島喜好さん

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本田宗一郎さんの跡を継ぎ、ブルドーザーの様な突進力で今日の「世界のホンダ」の地位を確固たるものにされた、本田技研工業2代目社長河島喜好さんが、10月31日午前9時11分、お亡くなりになられました。
ホンダスピードクラブの監督であり、父が兄のように慕っていた方でした。
謹んでご冥福をお祈り致します。

下記は、拙ブログの読者の方から頂いた、ホンダのリリースです。
情報ご提供、ありがとうございました。




訃 報
2013年11月6日 Honda広報部

弊社元社長 河島喜好 が永眠いたしましたので、ここに謹んでお知らせ申し上げます。

河島 喜好(かわしま きよし)
本田技研工業株式会社 元取締役社長  
2013年10月31日 午前9時11分、肺炎で死去。1928年2月1日生まれ、享年85歳。
葬儀は、故人の遺志により、すでに近親者で執り行われており、後日弊社として「お別れの会」を行う予定です。尚、弔意は固くご辞退申し上げます。
お問い合わせ先: 弊社総務部 電話: 03(5412)1112





以下は、11月7日付日本経済新聞朝刊記事より。




<社会2面:訃報>

元ホンダ社長の河島喜好(かわしま・きよし)氏が10月31日午前9時11分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。85歳だった。連絡先は同社総務部。お別れの会を行うが日取りなどは未定。

1973年、ホンダ創業者の故本田宗一郎氏の後継者として2代目社長に就いた。

82年に日本の自動車メーカーで初めて米国で現地生産を開始、海外展開を進めて事業を拡大した。社長を10年間務め、83年に取締役最高顧問に退いた。

94年には東京商工会議所副会頭に就任した。


<企業1面:評伝>

技術のホンダけん引 河島喜好氏死去

ホンダの2代目社長で、日系自動車メーカーの米国進出の先陣を切った河島喜好(かわしま・きよし)氏が10月31日、死去した。創業者の故本田宗一郎氏から1973年に社長を引き継いだ。石油危機や日米自動車摩擦など経営環境が激変した10年間で、売上高を5倍の2兆円に増やし同社の成長の礎を築いた。

「勝ち残るためには培った『ホンダイズム』の良い部分を残していく」。生前こう語っていた河島氏は、技術力を武器に自主独立を貫くホンダを象徴する経営者だった。

47年にホンダ前身の本田技術研究所に入社。草創期のエンジニアとして二輪車エンジンを設計した。61年、英国の伝統的な二輪車レース「マン島TTレース」に監督として挑み、125ccなど2つのクラスで1~5位を独占。「技術のホンダ」を世界に知らしめた。

45歳で故本田宗一郎氏の指名で2代目社長に就任。元副社長の故藤沢武夫氏と宗一郎氏の両創業者の強いリーダーシップが特徴だったホンダの経営を集団指導体制に移行した。日米自動車摩擦が激しくなるなか、日本の自動車メーカーとして初の米国生産を決断し82年にオハイオ州でセダン「アコード」の生産を開始。その後の成長につなげた。

実弟は元日本楽器製造(現ヤマハ)社長で、元ダイエー副会長の故河島博氏。

箱根への小旅行(75)

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「私、多分これが親父じゃないかと思うんです。」
そう言って私は写真を指さしました。

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親父は身長163cmと比較的小柄で、頭も小さい方でした。
アルバムに残っている写真と比較してみても、ゴグルからのぞく顎のラインが、私の記憶にある親父のそれとよく似ているような気がするのですね。

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1959年浅間耐久に向け、RC142で練習中の親父

Aさん、「へえ、そうかねえ」と私の意見に相槌を打ちます。

「で、これとこれは谷口尚己さんと島崎貞夫さんなんじゃないかと思うんですよ。」

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島崎さんと谷口さんも、その体型、顔の輪郭などからして、恐らくそれに間違いないだろう、と私は思っていました。
ご両人とも親父より年齢は下でしたので、2列目に陣取る親父の後、という位置にも違和感を感じません。
特に、谷口さんについては割と自信がありましたね。
浅間の時代の谷口さんは肘を突っ張らせたライディングフォームに特徴があり、「肘を張りすぎだ」と監督の河島さんからもよく注意されていた、というお話を聞いたことがあったからです。
その旨をAさんにお話しすると、

「あはは、そうだねえ。よくそう言われてたっけねえ。」

そういってAさんは笑いました。

結局のところ、私の推理が正しかったかどうかをAさんから伺うことはできませんでした。
やはり、当日誰がいたのか、はっきりとは覚えていらっしゃらないということで、50年という歳月はいかんともし難く重いものです。(^_^;)

ただ、こうしてパズルのピースを埋めて行くと、その面子はこの年1959年から翌1960年頃のスピードクラブの主力メンバーと概ね符合させられるのではないかと私には思えるのです。
この写真には、顔の写っている方6名の他に、

1.ゼッケン15の影に完全に隠れてしまっている方1人
2.ゼッケン12の後にマシンだけ見えている方1人

の、計8名の方がカメラのフレームの中にいらっしゃったようです。

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推理をもう少し膨らませ、この顔や姿の見えていない方についても考えてみましょう。

まず、義一さんのすぐ後ろ、マスクで顔を隠しているゼッケン15のマシンに乗っている方。
これ、恐らく鈴木淳三さんなのではないかと思います。

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当時淳三さんは義一さんに次ぐクラブ内No.2で、TTレース初参戦時は「主将:鈴木義一」に次いで「副将:鈴木淳三」を会社から拝命していました。
その背景からして、まあ、義一さんのすぐ後ろであるここが順当な位置なんではないでしょうか。
淳三さんではなく別の方、例えば田中健二郎さんの様な方である可能性もあるかな、という気もちょっとしないではありませんが、だとすると淳三さんはゼッケン13の親父のうしろか、ゼッケン12の谷口さんのうしろのいずれかだった、と考えざるを得なくなります。
なにか訳があって、そもそも淳三さんはこの場にいなかった、となれば話は別ですが、そうでなければこの撮影が行われた際、TT初参戦の副将として選抜された方が、「選抜から漏れた親父の後ろ」もしくは「年下である谷口さんの後ろ」というのは、なんとなく不自然であるような気がします。

その淳三さんの影に完全に隠れてしまっている、ゼッケン12の谷口さんの隣は、恐らく田中助さんでしょう。
そして、谷口さんの後、マシンの前輪だけ見えているのは、多分佐藤幸男さん。
と、こんな具合に考えるのが、恐らく順当なのではないかと思います。
そうすると、この時のグリッド順はこうだったことになります。

一列目
進行方向右→鈴木義一
進行方向左→秋山邦彦

二列目
進行方向右→鈴木淳三
進行方向左→福田貞夫

三列目
進行方向右→谷口尚己
進行方向左→田中助

四列目
進行方向右→佐藤幸男
進行方向左→島崎貞夫


つまり、ほぼ当時のクラブ内の序列はこうだっただろう、と思われる順番に並んでいることになるのですね。

…そうすると、田中健二郎さんと藤井璋美さんは、この時ここにはいなかった、ってことになるんでしょうか?

多分そうなんだろうと思います。
このお二人は「嘱託社員」でしたから、こういった社命を拝することはなかった、ということだったのかもしれませんよね。
「嘱託だった」という共通点を持つお二人がどちらもいない、となれば、その可能性が高かろう、と考えられるものと思います。

例によって、真相は藪の中、ではあるのですが。

箱根への小旅行(76)

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そんなこんなでお昼になりました。

この大観山レストハウス、今日のようによく晴れた日ならば景観は素晴らしいのですが、失礼ながら、食事となるとそう大したものはありません。(笑)
メニューのイメージは、といえば…そうですね、あんまりメジャーではないスキー場の「ゲレンデ食堂」みたいな感じでしょうか。
「何とかレストハウス」とか小洒落た感じじゃなくて、「ゲレ食」。
分かりますかね、この感じ?(笑)
まあ、今日のような天気であれば、何を食しても窓から見える景色が最高のオカズにはなるのでしょうが…。

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弟が食券で買って来たそばをすすりながら、Aさんとつれづれにお話を交わします。

「秋ちゃんはねえ、ちょっとまわりの人とは違っていましたねえ。」

Aさんは言います。

「運動神経はもう抜群でしたよ。スポーツは何をやらせたって万能だし、体はやわらかいしね。学生の頃は柔道部だったんですよ。」
「へえ、柔道部ですか。それじゃあ、受け身なんかきっとお手の物だったんでしょうね。」

当時のスピードクラブのトレーニングには、砂場の手前に跳び箱を置いてそれを飛び越えさせ、体を丸めるようにして砂の上で受け身を取る練習、なんてものがあったのだそうですね。
柔道の世界では、「受け身」はどんな技よりも先に「基本」としてまずみっちりと教え込まれる筈ですから、多分秋山さんはスピードクラブに入る前から、その受け身の取り方が基本動作として身についていたことでしょう。

「ところで、秋山さんの学校ってどちらだったのですか?」
私の問いに、
「日本大学ですよ。」
そうAさんは答えます。

「え、日大?」
そばをつまむ箸を止め、私はAさんに聞き返しました。
「じゃ、秋山さんって学卒だったんですか?」

それまで私は、秋山さんも親父と同じく高卒でホンダに入って来た方だったのだとばかり思っていました。

秋山さんが亡くなられたのは昭和34年4月1日、享年24歳。
兄の呆榮さんの手記によれば、当時秋山さんは24歳になったばかりだった、ということのようですので、この年昭和34年は、秋山さんにとって満25歳を迎えることになるはずだった年、ということになります。
となれば、秋山さんの生まれ年は恐らく昭和9年、早生まれでないとするなら、昭和9年10月生だった親父と同学年だった筈、という計算が成り立つことになります。
ちなみに、親父の入社は1953年(昭和28年)の事でした。

親父の若かりし頃のエピソードを追いかける過程でホンダの歴史を紐解いて行くと、秋山さんのライダーとしての評価は、会社・クラブ内ともに、非常に高いものだった、ということがよく分かります。

以下引用---

1989年 三樹書房刊「グランプリレース 栄光を求めて 1959~1967」河島喜好談「勝利への3年間」より

(前略)
ところが,そんな矢先,思いもかけない不祥事が発生したのです。
初出場も決定し、そのライダーも発表されていたのですが、そのうちの一人である秋山邦彦が“妻と勲章”という映画のロケ中、元箱根のカーブでトラックと衝突して死亡するという、最も悲しむべき事件が起きたのです。
(中略)
彼は大変熱心なライダーで、教養もあり、マン島コースについても、あらゆる資料を手元に集めて研究していたのです。
そして英会話も出来なければいけないというので、その勉強も欠かさずにやる程の熱の入れ方でした。
彼のレース歴は新しいのですが、人に負けたくないというファイトは旺盛な青年で、動作もキビキビしており、海外レースで長年鍛えれば、相当に伸びる素質をもっていたライダーであっただけに、彼の死はホンダスピードクラブにとっても、本田技研にとっても大きなマイナスでした。
(後略)

---

昭和31年(1956年)6月、ホンダスピードクラブがホンダ社内に発足した際、その中核を成す事になったライダーは、その前年1955年に開催された第一回浅間高原レースに出場経験のある方々でした。
では、秋山さんのお名前もこのレースのエントリーリストの中にあるのだろうか、というと、これが実はありません。
秋山さんのお名前が初めてレースシーンの表舞台に出てくるのは、その2年後の1957年、場所を第一回大会の北軽井沢の公道から、浅間牧場内「浅間自動車テストコース」に移されて開催された、第二回浅間火山レースから。
心証としては、やや唐突に「秋山邦彦」という名前が、それこそホンダの歴史の中に「突然」表れてくるのです。

私には、この理由が長いこと分かりませんでした。
年齢は親父と同じで、それほどまでに評価の高かった秋山さんが、なぜ親父や鈴木義一さん、谷口尚己さんの出場していた第一回大会に出場していなかったのか?

これが分からなかったため、このブログの中にある「私小説 つわものどもの夢のあと」の中に出てくる秋山さんは、当初未舗装の道路で行われるレースには興味がなかったのだ、という設定にしてストーリーを展開させていました。


その「わからなかった理由」が、この時のAさんの証言で明らかになったのです。
計算してみると、秋山さんの入社は親父が入社した昭和28年の4年後、恐らく23歳になる年である昭和32年春。
つまり、第二回浅間大会の行われた年の春だった、ということになるのですね。
そうすると秋山さんは、入社後すぐに厳しい選考をくぐり抜けてスピードクラブに入部し、いきなりその年の秋(11月)に行われる、当時国内では最も格式の高い「浅間火山レース」の出場選手に選抜されたのだ、ということが分かります。
やはり、非凡な方だったのでしょうねえ。
秋山さんの名前がホンダとスピードクラブの歴史の中に突如表れることになった経緯が、これでやっと腑に落ちました。

「実は私も日大卒なんですよ。秋山さん、学部はどちらだったんでしょうね?」
「学部?さあ、学部までは分からないけどねえ…。でも、身軽だったですよ。足を開いて、おなかが地面にピターッと着くくらい体は柔らかかったし、その場で後ろ宙返りまでできちゃいましたからね。」
「後ろ宙返りって、バク宙ができた、ってことですか?」
「バク宙?そう言うんですか?」
「そりゃすごいや。」

3人してそばをすすりながら、話は続きます。

謹賀新年

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あけましておめでとうございます。

旧年中は、なんとも不定期な更新にも関わらずご愛顧頂き誠にありがとうございました。

本年も何卒気長によろしくお願い申し上げます。


箱根大観山より芦ノ湖を望み

箱根への小旅行(77)

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この写真の事も伺ってみました。
ウエルカムプラザ青山「浅間でのHondaの挑戦」展(13)で記事にした、謎のマシンが写った写真です。

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この写真が撮影されたのは、昭和33年から34年にかけての頃かと思われます。
場所はまず間違いなく浅間自動車テストコースでしょう。

この頃のホンダのマシンといえば、エンジンがOHCあるいはOHVの4ストローク、フレームはエンジン自体がストレスメンバーを兼ねるバックボーン型であった、というのは、ホンダの歴史にちょっと詳しい方なら誰もがご存知のことかと思います。
ですが、この写真、一番左に写っているマシンを良く見ると、フレームは2本のダウンチューブを持つダブルクレードル、エンジンは明らかにシリンダーヘッドにカムシャフトを持たない「2ストローク」であることがはっきりと分かるのです。

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タンクやフロントフォークの形状からして、この一番左端のマシンも他に並んだものと同様、1958年の第一回MCFAJクラブマンレースにホンダスピードクラブが走らせたRC71あるいはRC76であろうと思われます。
が、なぜかエンジンとフレームがこの1台だけ他と違う。
しかも、そのエンジンもフレームも当時ホンダが手を染めたことがなかった筈のタイプのものであることを考え合わせ、「これは一体どんな背景を持ったマシンなのだろう?」と、強く興味をそそられたものでした。
結局これがなんだったのか、その記事を書いた当時は分かりませんでしたが、当時スピードクラブにいらしたAさんだったら、この謎のマシンについて何かご存知かもしれない、と考えるのは至極当然の帰結です。

この写真が親父のアルバムの中にあったものであることを説明しながらAさんに差し出し、質問を投げかけてみました。

「この左端のマシンって、何だと思われますか?何かご存知ではないでしょうか?」

この写真を見たAさんは、「よくこんなものに気付いたもんだねえ。」と、半ば感心し、半ば呆れたように笑っておられました。

謎解きのヒントになれば、と思い、私は続けます。
「この左端のマシンって、恐らく島崎貞夫さんのものなんじゃないかって思うんです。」
そう言って写真を指差し、
「この車、タンクに『雷電』って書いてありますよね?『雷電』って、確か島崎さんが自分のマシンに入れていたネームだったんじゃなかったかと思います。昔、島崎さんがこんなマシンの開発に関わっていた、ってことはなかったでしょうか?」

私の問いの「開発」という言葉にAさんが敏感に反応して答えました。
「いや、この時代にホンダがこんなタイプのマシンを開発していた、なんてことは絶対にないね。だって、社長が大嫌いだったもの。社長がダメだ、っていうものを会社が作るはずがないでしょ?」

「確かにそうですよね。私もきっとそうだったはずだと思います。」
そうは言いながら、それでも私は改めて写真を指差して言いました。
「でも、これってどう見ても2ストロークですよね?こんな写真が残っている、ってことは、間違いなくこういうマシンが当時のホンダにあった筈だ、って考える他ないと思うんですが。」

そう畳みかける私の問いに、うーん、そうだねえ、と暫く写真を眺めていたAさん、
「いやあ、分らないねえ…。私もこんな写真初めて見るしねえ。」

…なんとこの写真。
元スピードクラブのメンバーの一人であったAさんですら素性が分からないようなものだったのです。

「そうですかあ…。残念だなあ。」
これでこの謎のマシンの素性が分かるかもしれない、と期待していたのですが…。
やはり真相は藪の中、ということになってしまうようであります。

箱根への小旅行(78)

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「…ただね。」

ふと思い出したようにAさんが言いました。

「この頃、研究所に研究用のアドラーがあったから、そのエンジンを使って作ったものだったかもしれないね。」
「…アドラー、…ですか…。」

研究所に研究用のアドラーがあった、というお話は、以前私も聞いたことがありました。
時期はちょうどC70のエンジンを使ったスポーツタイプCS71を開発している頃のことで、この頃研究所にあったアドラーとは、そのCS71のベンチマークとして入手された、アップマフラーのMB250Sだった、ということのようなのです。

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MB250SとCS71

(そうか、アドラーか…。)
今から約半世紀前の浅間で、この写真に写っている方々は何を考え、何を求めてこのマシンといっしょにグリッドに並んでいたのだろうか?
Aさんにそう言われ、私は改めて写真を眺めて「うーん…」と考えを巡らせていました。

と、Aさんが言います。

「それって、『雷電』でしょ?他に名前が書いてあるのがありますかね?」
「…車にですか?」
「そう。」

Aさんの問いの意味が分からず、やや戸惑いながら私は答えを返しました。

「えっと…。これが多分親父だと思うんですけど…。」

と写真の一台を指差し、
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「これ多分、『海風』って書いてあるんじゃないかと思うんですが…。」
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そう私は答えました。

「ああ、やっぱりそうだね。」

その私の答えにAさんはニコッと笑い、

「この頃、みんな自分の車に戦闘機の名前を付けてたんだよね。『雷電』とか『隼』とか『紫電』とか。」

(…戦闘機?)
私は「あっ」と思いました。

「…これって…、戦闘機の名前だったんですか?」
「そうですよ。」
やや驚いた様子で尋ねた私に、「何が意外なのか?」といった風でAさんは平然と答えました。

「…あはは、そうか。なるほど、そうだったんですね。」

これは私の勘違い。
なぜ島崎さんのマシンに「雷電」の名前が入れられていたか。
その理由を私は、ちょっと失礼ながら島崎さんが「やや小太りの体型だったから」なのだとばかり思っていました。
昔、相撲界に「雷電」というしこ名の力士がいたのだそうで、島崎さんはやや小太りの自分の体型を自虐気味に「雷電」というネームを敢えて自分のマシンに入れていたのだ、と私は理解していたのです。
が、考えてみれば昭和10年前後に生まれた親父の世代の人々にとって、「強さ」と「速さ」、更に「命知らず」を象徴する存在と言えば、それはまだ戦時中だった少年の頃に憧れた、大空を自在に駆け巡る「戦闘機」だったのですね。

「大戦に敗れた日本を、グランプリという新たな競争を通じて世界に飛躍させる」

スピードクラブの方々には、そんな本田宗一郎社長の描いた遠大な戦略の最前線に立ち、命を賭して戦っている、という強い自負と高い誇りがあったのだと思います。
そんな自らを「特攻隊」になぞらえ、自らが操るマシンに、かつて欧米を畏怖せしめた「戦闘機」の名前を冠する…。

なるほど。

戦争があった時代を知らない私達の世代には、なかなか思い及ばない心境ですが…。
でも…、分かります。
言われてみれば、実に良く。

親父の世代の方々が、世界的な奇跡と言われた日本の高度成長を迎える前の時代に、どんなことを考えていたのか。
分かった事実は些細なことなのかもしれませんけれど、その分かった事実が世代による理解の限界を埋めてくれ、僅かながらも当時の方々を突き動かした原動力が何者だったのかを、垣間見せてくれたような気がしたものでした。

箱根への小旅行(79)

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食べ終わったそばの器をセルフサービスの返却口に返し、手元にある残りの写真をめくりながらAさんに聞き忘れたことはなかったか、頭の中の整理作業に入っていました。

と、手元の写真をめくるうち、これが目に留まりました。

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それは、この長い連載の検証作業を行う過程でネットから頂いてきた、ここ大観山レストハウスの衛星写真でした。

(そういえば…)
この写真を眺めながら、考えました。
(ついさっきAさんに「ここだよ」と言われるまで、条件に合う場所が見つけられないで「ない、ない」と探しまわることになってしまっていたのだっけな…。)

今日一日、Aさんから当時のいろいろな出来事を教えて頂くうち、当初考えていた「現場は、芦ノ湖から大観山レストハウスまでに至る坂道のどこだったのか?」という、Aさんに証言を頂くために用意した推理は、ものの見事にひっくり返ってしまっていました。
そして、それがこれまで検証を重ねて来た現場の状況と合致するものなのか否かを検証する時間もないまま、所与のものとなってその後に伺うお話は進んでしまっていたのです。

(もうここまで来れば、『現場がここだった』という事実が覆ることはないのだろうが…。)
そう思いながら、改めてこれまで調べを進めて来た結果導き出された「事故の起こった状況」と照らし合わせ、その状況とこの現場が符合するのか、頭の中でイメージし直してみたのです。

推理のスタートになったのは、事故直後に撮影されたと思われるこの写真です。

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弟の言う「あの写真が事故直後に撮影されたものとは限らない」という説に屈する腹が決まるまで、私が思い描いていた「現場を特定する条件」は以下の通りでした。

<条件1>
「事故が起こったのは、椿ラインの右コーナーだった」
<条件2>
「現在の大観山レストハウスの付近がレースシーンのゴール地点になっていて、事故はゴール地点で待機している撮影隊の目の前で起こった」
<条件3>
「事故の起こった坂道は、東から西に登る坂道だった」
<条件4>
「スピードクラブのライダーたちは坂道を下から上に登っていたところ、上から坂道を下って突然表れたトラックと遭遇した」
<条件5>
「事故の起こった道は、元箱根側から見て右手は石垣、左手は芦ノ湖を望む崖の連なりになっていた」
<条件6>
「レースシーンのスタート地点は、現在の大観山レストハウスから目視できる位置にあった」

この6つある条件のうち、私が最も強くこだわり、その結果、他の「推測される状況」との矛盾に頭を悩ませる事になったのは<条件3>、「事故の起こった坂道は、東から西に登る坂道だった」という点でした。

過去記事箱根への小旅行(23)から始まる検証の結果、「事故の起こった現場はほぼ東西に道路が走り、かつ、東から西に登る坂道になっていた」という推理を私は導き出していました。
が、この推理を芦ノ湖から大観山に至る坂道に当てはめて検証してみたところ、その条件を満たすカーブというのは、芦ノ湖~大観山の登り坂にはほとんどありません。
再三に亘る現地訪問など長い検証を経た結果、「条件に当てはまる場所はない」という結論を導くに至り、最終的に「事故は大観山レストハウス手前の最終右コーナー」で起こったもので、「事故現場の写真は、後日行われた現場検証の際に撮影されたものだった」とする弟の説に屈する腹を決めることになった、という訳です。

ところが、実際に現場を訪れてその真相が明らかになってみると、その推理の大前提になっていた「レースコースは大観山の芦ノ湖側の坂道にセットされていた」という条件が誤っていたことが分かりました。

(…ならば、その明らかになった事故現場に、もう一度あの事故直後と思われる現場写真を当てはめてみたらどうなるのだろうか?)

そう私は思い、手にしたレストハウスの衛星写真を見つめながら、改めて頭の中で情景をイメージし直してみたのです。

[転載]浅間、マン島、鈴鹿

箱根への小旅行(80)

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過去の検証から、事故が起こったと思われる昭和34年4月1日14:00頃、太陽はほぼ南西の方角にあったことが分かっています。
とすれば、その時間の影は太陽の反対側、北東の方角に伸びることになります。
プロジェクトXのDVDからキャプチャした事故現場の写真が「事故直後に撮影されたもの」という前提に立った場合、写真の対面に立つ方の影が落ちている道路は、その落ちている影の向きからして、「ほぼ真東から真西へ登る坂道」だった、という推理を組み立てていたのはすでにご承知の通りです。
これを、ネットから頂いてきた現場付近の衛星写真に当てはめて考えてみましょう。
ネットの衛星写真は、方角をいじらずに素直にキャプチャしてやれば自動的に真北が上になってくれますから、方位の特定は簡単です。
大観山レストハウスの衛星写真を見て、道路がほぼ東西に走っているところは、といえば、当てはまる部分は、ここになります。

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…なんとぴったり合うところがあるもんじゃありませんか。
前はあれほど探して見つからなかったのに…。
Aさんから伺った、事故現場である右コーナーの立ち上がりの方向とほぼ一致しています。

では、次。
事故の際、秋山さんたちスピードクラブの面々は、椿ラインを湯河原方面から大観山山頂目指して登っており、相手のトラックは坂道を下って突然表れました。
そうすると、秋山さんのオートバイとトラックの進行方向はどうなるでしょう?
こうなります。

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なるほど。
では、この時にできる影の方向は?
こうです。

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これまたぴったりですね。

じゃ、この衛星写真に事故現場の写真を重ね合わせてみたらどうなるのでしょう?
つじつまの合うものになるのでしょうか?
やってみると…。

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うわ…ぴったりだ…。
影も、トラックも、オートバイも…。

ではでは、この写真を撮影したカメラマンはどこにいたんでしょうか?
ボンネットトラックのボンネット上部が見えるくらい高い位置から撮影されていますけれど?
…この現場写真に写っている右手の土手の上から撮影したとすれば…

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こういう写真になります。

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…。
おお。
…合ってる…。
すべてがぴったりと辻褄の合う位置に収まる…!

(こりゃ、凄い…。)
腹の底から湧き上がって来る感情が抑えられませんでした。
(全部ぴったりじゃないか…。)
なんと、あの現場写真から推測された状況のすべてが、ここが現場だったとすれば、実に美しく、ものの見事に一致するのです。
西から東へと登る坂道、その坂道に落ちる影の方向、事故発生時のトラックとオートバイの位置関係、写真を撮影したカメラマンの立っていたと思われる場所…。
まるで、長い時間をかけ、苦心惨憺して組み上げて来たジグソーパズルの最後のピースが、苦もなくぴったりと収まるべき位置に収まったような、達成感にも似た感覚が襲って来ました。

「ああ…。」

衛星写真を手にしながら、思わず声が出ました。

「…Aさん、ここですよ。間違いない、現場はここです…!」
言いながら、私は写真を持つ手が震えているのを感じていました。

「そうかね?間違いない?」
その私の言葉に、Aさんはそう返して来ました。

やはりAさんも「ここだ」と思いつつも、確証はなかったのかもしれません。
なにしろ事故が起こったのは50年も昔の事です。当時と現在とでは、きっと現場の様相は大きく変わってしまっていたのでしょう。
ここで間違いない、と、今ここにいる誰もが納得できる証拠がもう一つ欲しい、と思っていらしたのかもしれませんね。

私は、ここが現場で間違いない、と確証するに至った理由を、手元にある写真を元にAさんに懸命に説明しました。
が、残念ながらその説明は、恐らくAさんに理解して頂けるようなものにはならなかったでしょうね。
本日ここまでに至る前段階で、何を元にしてどんな方法で検証を行い、どのような推理を組み立てて来ていたのか。
そのすべてを説明するには、時間も資料も、私の頭の整理も足りませんでした。
そんな拙い私の説明で、「間違いない」と私が確信するに至った理由を、果たしてAさんにご理解頂けたかどうか…。

(Aさんには、後でもっと詳細な説明を差し上げることにしよう…)

昂ぶる胸の鼓動を抑えながら私は、試行錯誤の末に導き出した当時の状況の推理が、今ここで正しく現場を特定する根拠になっていた事に深い感慨を覚えていました。
そして同時に、足掛け3年に及ぶこの長い推理の旅程が、遂に終焉を迎えつつあることを、何とも言いようのない深い達成感と、なぜか不意に襲われた一抹の寂しさと共に噛み締めていたのでした。

箱根への小旅行(81)

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帰りは大観山の山頂からそのままターンパイクを下って小田原厚木有料道路へ抜け、厚木ICから東名高速道路へ入って東京へ帰ってきました。
Aさんと弟を近所まで送り、お礼を述べて二人と別れた私は、まだ日が高かったこともあり、その足で秋山さんの眠る豪徳寺へ赴いてみることにしました。

豪徳寺を訪れるのは、親父が亡くなった翌年、平成16年のゴールデンウィーク以来6年ぶりのことです。
近所にある世田谷区役所の駐車場に車を停め、10分ばかりてくてくと歩くと、豪徳寺の山門に到着します。
6年前ここを訪れた際には、墓前に捧げる線香と生花を門前のお花屋さんに寄って買って行ったことを覚えていましたので、今回も、と思って門前までやって来たのですが、この6年の間にそのお花屋さんはなくなってしまっていました。

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「あれ、なくなっちゃってるよ…。」
前に来た時はここにあったのに…。
と、そう思いながら、手ぶらでここまでやって来てしまったことを少し後悔しました。
6年もたてば、こんなところでも様子が変わってしまうのですね。
手ぶらでお墓参りってのも変だよなあ…、とも思いましたが、辺りに代わりになるお花屋さんがあるかどうかも分からず、仕方なくそのまま何も持たずにお寺の門をくぐりました。

6年前に思いがけず見つけた井伊直弼の墓所は、この6年の間に国史跡として指定され、改装中でした。

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一方、6年前には改装中だった三重塔?は、もうすっかり改修が終わっていました。

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(6年も経つと、結構あっちこっち変わるもんなんだねえ…。)
秋山さんの墓所へ向かう前に、ちょっと寺内を遠回りしてぶらぶらと散策しながら、たった6年という短い歳月でも世間というのは案外変わって行くものなのだ、と改めて感じていました。

やがて、秋山さんの眠る墓所へと辿りつきました。
そこには、6年前に訪れた時と同じように、緑青で緑色になった秋山邦彦像が静かに佇んでいました。
まるで秋山さんがそこに佇みながら、昭和から平成に至る50年という歳月の変遷を、静かに見守り続けているかのように私には思えました。

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「秋山さん、ご無沙汰しております。手ぶらでごめんなさい。時間がかかりましたけれど、今日やっとあなたの事故現場がどこだったのか、明らかにすることができましたよ…。」
秋山さんの墓前に座った私は、静かに心の中でそう呟きながら、手を合わせました。



「私の子どもなんか、私の若いころのことなんかに全然興味持ったりしませんよ。いくらお父さんの若い頃のことだからって言っても、なぜあなたはそんな昔の事を一生懸命調べてみよう、なんて気になったんでしょうねえ?」

少し時間が遡りますが、Aさんと弟を車に乗せ箱根へ向かう途中、休憩で立ち寄った高速のSAで、煙草を吸いながらAさんはそう私に尋ねて来られました。

Aさんにそう言われた私は、少し考えてから言いました。
「…私たちって、3人兄弟なんですよね。」
そう言って隣に立つ次男を指差し、
「これ、次男で、名前を健二っていうんです。」
はあ、健二さん、と私の話を聞きながら、Aさんは相槌を打ちます。
「で、これの下には三男がいて、名前は貴光っていうんですよね。この二人の名前は親父が自分で考えて付けたものなんだそうなんですよ。」
ふむふむ、とAさんは頷きます。

過去記事「名前の由来」で私は、私の二人の弟たちの名前は、1960年の欧州遠征で同僚として親父と一緒にヨーロッパへ赴き、日本人初の3位表彰台を獲得した田中健二郎さんと、同じく日本人初の優勝者となった高橋国光さんに由来するものなのではないか、という推理を展開していました。
だから、次男の名前には田中健二郎さんから健二、三男には橋国さんから貴光と付けられたのではないか。
そう私は思っている旨を説明しました。

「で、私の名前って、昭彦って言うんですね。」
そう自分を指差しながら私は続けました。
「私の名前は、この二人と違って私の祖父が付けたものなのだ、って話を私は母から聞いているんですが…。」
そう言って私は一拍置き、
「私のこの名前って、実は秋山邦彦さんに由来するものなんじゃないのか、って気が私するんです。」

私の説明を聞いていた弟が「あっ、なるほど!」という顔をしました。

「根拠として考えられるのは…」と私は続けます。
…私が生まれたのは1964年で、1959年の秋山さんの事故から5年しか経っておらず、記憶がまだ新しかったのではないかと思われること。
…名前の一部を持って来るやり方が、二人の弟、特に三男のそれと同じであること。

もっとも、「違う」と考えられる点もないことはなくて、
…若くして不慮の事故で亡くなってしまった人の名前を、自分の最初の子供に付けたりすることがあるだろうか?
「縁起でもない」と思う方が普通なのではないか?

「ただ…」
ひと通り自分の考える根拠を説明した後に、私は言いました。
「もし秋山さんが本当に誰からも一目置かれるだけの人物で、親父が一種の『敬意』を払い、『自分も彼のようにありたい』と思うような存在だったのだとすれば、その可能性もないことはない、と私には思えるんです。母からは、私の名前は『祖父が付けたものだ』って話を聞いていますけれど、実際は親父がまず『アキヒコ』って音を決めてから、『これにいい字を当ててくれないか?』って祖父に頼んだ、ってことなのかも知れませんしね。親父も祖父ももうあの世の人ですから、真相は分からないのですけれど。」
そう説明してAさんに向き直り、
「ですのでね、私、秋山さんって一体どんな方で、親父とどんな関わりを持った方だったのか、凄く興味があるんですよ。」
そしてヘヘッ、と笑い、
「…私の名前って、私にとっては親父が残して行ったコード(暗号)なんです。」

私の説明を、SAの喫煙所で聞いていたAさん、うーん、と暫く腕組みをして考えていましたが、やがて、

「うん…、そうだねえ。そういうこともあったかもしれないねえ。」
そう返して来られました。
私の言う「一種の『敬意』を払い、『自分も彼のようにありたい』と思うような存在だったのだとすれば…」という話に、何か思い当たるところがあったのかも知れませんね。

(2011/1/23 加筆修正)

【訃報】河島喜好さん

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本田宗一郎さんの跡を継ぎ、ブルドーザーの様な突進力で今日の「世界のホンダ」の地位を確固たるものにされた、本田技研工業2代目社長河島喜好さんが、10月31日午前9時11分、お亡くなりになられました。
ホンダスピードクラブの監督であり、父が兄のように慕っていた方でした。
謹んでご冥福をお祈り致します。

下記は、拙ブログの読者の方から頂いた、ホンダのリリースです。
情報ご提供、ありがとうございました。




訃 報
2013年11月6日 Honda広報部

弊社元社長 河島喜好 が永眠いたしましたので、ここに謹んでお知らせ申し上げます。

河島 喜好(かわしま きよし)
本田技研工業株式会社 元取締役社長  
2013年10月31日 午前9時11分、肺炎で死去。1928年2月1日生まれ、享年85歳。
葬儀は、故人の遺志により、すでに近親者で執り行われており、後日弊社として「お別れの会」を行う予定です。尚、弔意は固くご辞退申し上げます。
お問い合わせ先: 弊社総務部 電話: 03(5412)1112





以下は、11月7日付日本経済新聞朝刊記事より。




<社会2面:訃報>

元ホンダ社長の河島喜好(かわしま・きよし)氏が10月31日午前9時11分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。85歳だった。連絡先は同社総務部。お別れの会を行うが日取りなどは未定。

1973年、ホンダ創業者の故本田宗一郎氏の後継者として2代目社長に就いた。

82年に日本の自動車メーカーで初めて米国で現地生産を開始、海外展開を進めて事業を拡大した。社長を10年間務め、83年に取締役最高顧問に退いた。

94年には東京商工会議所副会頭に就任した。


<企業1面:評伝>

技術のホンダけん引 河島喜好氏死去

ホンダの2代目社長で、日系自動車メーカーの米国進出の先陣を切った河島喜好(かわしま・きよし)氏が10月31日、死去した。創業者の故本田宗一郎氏から1973年に社長を引き継いだ。石油危機や日米自動車摩擦など経営環境が激変した10年間で、売上高を5倍の2兆円に増やし同社の成長の礎を築いた。

「勝ち残るためには培った『ホンダイズム』の良い部分を残していく」。生前こう語っていた河島氏は、技術力を武器に自主独立を貫くホンダを象徴する経営者だった。

47年にホンダ前身の本田技術研究所に入社。草創期のエンジニアとして二輪車エンジンを設計した。61年、英国の伝統的な二輪車レース「マン島TTレース」に監督として挑み、125ccなど2つのクラスで1~5位を独占。「技術のホンダ」を世界に知らしめた。

45歳で故本田宗一郎氏の指名で2代目社長に就任。元副社長の故藤沢武夫氏と宗一郎氏の両創業者の強いリーダーシップが特徴だったホンダの経営を集団指導体制に移行した。日米自動車摩擦が激しくなるなか、日本の自動車メーカーとして初の米国生産を決断し82年にオハイオ州でセダン「アコード」の生産を開始。その後の成長につなげた。

実弟は元日本楽器製造(現ヤマハ)社長で、元ダイエー副会長の故河島博氏。

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